退化

昨日はイルカだった。今日、仕事から帰ると、チンチラネズミになっていた。
水に濡れて寒かったんだろう、彼女はバスタブの縁で、ちょっと気の毒なくらいに、ぷるぷる震えていた。慌てて抱えあげて、ドライヤーをかけた。からだにぺったりと張りついた毛が、乾くとどんどん膨らんで、すごく手触りがよかった。
人間だったころも、よく、彼女の髪を乾かしてあげていた。こんなにふわふわではなかったけれど、その代わりにもっと、さらさら、つるつるとしていた。どっちが好みかといわれると、それは難しい。彼女の髪の毛——もちろん、べつの部分だってそうだけれど——だったら、よっぽど臭いとか、べたついているとかではない限り、嫌い、なんて感じることは、ないと思う。
誰かと恋をするってのは、つまり、そういうことなんだ。
はじめて彼女が「退化」したときは、とにかく、びっくりした。朝、目が覚めると、ベッドには彼女の代わりに、毛深いサルが寝転がっていたんだから。どうしたらいいのかわからなくて、途方に暮れた。恐怖とか、絶望とか、そういう感情をいだく余裕さえ、なかった。
でも、「退化」していく彼女と暮らしていくうちに、いろんなことがわかるようになってきた。ひとつには、毎日すこしずつ下等になっていくその動物が、間違いなく彼女だってこと。彼女は一週間くらいのあいだ、ヒヒとか、チンパンジーとか、ゴリラとか、とにかくサルだった。けれど、サルになっても、頬をさわるクセとか、お気に入りの青い食器とか、そういうのは変わらなかった。それどころか、僕にむかって話しかけようとしたり、言葉が通じないのがわかると、身振り手振りで、なにかを伝えようとしたり。彼女らしい、いじらしさは、「退化」したって残っていた。
そのあとも彼女は、いろんな生き物へと「退化」していった。イヌとか、カラスとか、ウマとか。それで、昨日はイルカになって、今日はチンチラ。でも、もう驚いたり、不安になったりはしない。大切なのは、僕がまだ彼女を好きで、彼女のほうも、そうだってことだから。
彼女が「退化」するたび、僕はサインを送った。背中をぽん、ぽんって、二回だけ、優しく叩く。彼女が人間だったころからの、とくべつな合図。すると彼女は、ふふって、笑う。「退化」した彼女は笑わなかったけれど、それでも顔をなめたり、喉を鳴らしたりして、応えてくれた。
チンチラネズミはすごく臆病だって聞いてたから、みすぼらしい襤褸みたいに丸まった彼女を見つけたとき、「今度ばかりは、もしかしたら」って考えが、頭をよぎった。イルカなら、きっと賢いだろうし、そんなに臆病だって話も聞いたことなかったから、のんきしてたのだけれど。そもそも、放っておいたって、イルカは水からはあがれないだろうから、そんなに心配してなかった。でも、ネズミは怖がりだし、いままでの動物より、身体や脳が、ずいぶん小さい。もしかしたら、記憶がかすれてしまっているかもしれない。僕のことを、ぼんやりと覚えているくらいじゃ、怖がって、逃げだしてしまうかもしれない。
でも、僕の組んだ脚のうえで、気持ちよさそうに目を細めて、ドライヤーの温風を浴びる彼女を見ていたら、そんな不安はどこかにいってしまった。彼女はまだ僕のこと覚えていて、それに恋もしてくれているんだって確信が、彼女を乾かす指先から——僕の冷えきった血液を、じんわりあたためながら——からだ中を、巡っていった。
だから、乾かし終わってすぐに、僕はいつものようにサインを送ったんだ。ふわふわした背中を、ぽん、ぽんって、二回だけ。
すると、彼女は細めていた目を見開いて、すっと後ろ脚で立ち上がった。僕から顔を背け、鼻をすこしひくひくさせて、齧歯類特有の、警戒するようなそぶりを見せた。どこか逃げる場所を探しているようだった。
そういえば、チンチラになってからは、彼女の、頬をさわるクセを見ていない。
僕は彼女を抱きあげた。なんだか、たまらなくなってしまったんだ。いそいでキッチンにむかって、ストロベリー・ジャム付きのクラッカーをあげた。チンチラのからだにはよくないのだろうけど、それは彼女の大好物だったから。彼女は、僕の腕のなかで、おとなしく、でも無表情に、クラッカーを頬張っていた。
もう夜も遅かったから、ベッドに入った。彼女と、彼女の好物のクラッカーと、一緒に。彼女はぜんぜん眠くなさそうだったけれど、腕枕をして、そこにジャム・クラッカーを置くと、布団に入ってくれた。大きな耳に「大好きだよ」って囁いた。そしたら、彼女はクラッカーをもぐもぐ頬張ったまま、きゅう、って小さく鳴いた。鳴いたんだ。
だからまだ、僕らは恋をしている。